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zoom RSS 小説 「消されたソフト」 ― 一挙掲載版

<<   作成日時 : 2011/12/14 11:20   >>

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お断り(本小説に登場する人物・内容は全てフィクションです)
    
 「消されたソフト」

 昭和二十年八月、神奈川県・厚木基地に日本人には見慣れない濃いサングラスをかけコーンパイプを咥えたまま降り立った、アメリカ軍最高司令官「ダグラス・マッカーサー元帥」は第二次世界大戦の連合国側が発した「ポツダム宣言」の受諾によって「無条件降伏」した敗戦国日本の占領・統治の全権を託されていた。

 「マッカーサー」の任務は、連合軍最高司令官として、連合国間で取り交わされた日本占領に関わる国際事項の処理であったが、アメリカ本国政府から与えられた極秘指令の実行もあった。

 「マッカーサー」は連合国総司令官としての表向きの任務とは別に、アメリカ本国から重大な任務を命じられていた。

 わずか一枚にタイプアップされた「極秘指令文書」は「マッカーサー」の秘書の薄いかばんと共に、機関銃を取り付けたジープ、装甲車のものものしい先導の中を、占領軍総司令部(GHQ)として接収済みの皇居脇のビルに入っていった。

 本格的米軍の日本進駐と共に、「マッカーサー」の占領統治は本格的且つ確実なテンポで推進されていった。

 連合国総司令官として、戦勝連合国間の利害を調整し、日本国内を占領統治する作業は「マッカーサー」にとって何の問題も無い作業であった。

 今や、第二次世界大戦終結の最大の功労者の地位と、圧倒的軍事力に加え唯一「人類最強の兵器・原子爆弾」を手にした世界最強の国家アメリカにとって、計画の実行を妨げるものはなかった。

 国際公約に基づく占領計画の実行は、「マッカーサー」にとっては心地よい任務でさえあった。

 「大統領執務室」とも見紛うGHQの奥まった執務室で、最高司令官が考えにふけるのは、本国より与えられた「米国による日本占領プログラム」の実践手段を静かに検討する時であった。

 本国の指令は簡潔であった。

 「占領プログラム」

 占領後の日本国は、以下の国家たらんよう指導・再構築する。

 一.将来とも、民主主義的国家である事。
 二.将来ともアメリカ合衆国にとって友好国である事。
 三.前三項を実現した後も、アメリカ合衆国を凌ぐ国力(国際国家間におけるリーダーシップ)を有する国家であってはならない。

 「マッカーサー」は、自らに与えられた真の任務は唯一最大「占領プログラム」の第三項と理解していた。
 民主主義国家である事も、将来もアメリカの友好国であるべき事も容易であるが、決してアメリカを超える国家たらしめてはならないという条件は、前二項との大きな矛盾を含んでいたからである。
 真の民主主義からいえば、日本がアメリカを凌ぐ国家になる自由もまた保障されていなければならないからである。

 その矛盾を克服せねばならないロジックも、本プログラム作成の中枢である「ペンタゴン=米軍最高司令部」作成の、ルーズベルト大統領署名の膨大な資料と共に「マッカーサー」に報告されていた。
 アメリカは、日米開戦一年後には既に対日本勝利を確信していた。

 勝利の確信に基づいて、戦争終結後の日本占領後の入念な計画の立案に「ペンタゴン」が着手したのは昭和十七年十一月であった。
 結果的に、計画がアメリカ合衆国大統領「ルーズベルト」によって承認されたのは戦争終結のわずか三か月前の昭和二十年五月、ネバダ砂漠における原爆実験成功によって百%の対日勝利と米国のみの新兵器の完成を確認されるまでの丸二年余を要した。

 ペンタゴンの占領プログラムを二転三転させたのは、反転攻勢後一年以内に降伏するであろうと分析していた日本軍との想像を超えた激戦であった。
 特に、ゼロ戦、戦艦大和に代表された技術力の高さや万歳突撃、カミカゼ特攻隊を実行せしめる日本人の精神構造はプログラムの書き直しを余儀なくさせた。

 アメリカ中から「ペンタゴン」に集結した「日本」に関するあらゆるジャンルの専門家・研究家が二年余を費やして得た結論が僅か三項の「占領プログラム」であった。

 「占領プログラム」三項実効の為の具体的手段も指示されていた。
 一.日本国は将来とも、アメリカ合衆国にとって友好国であるよう手厚い保護と支援をするが、真の責任感を芽生えさせるような制度、教育は与えない。

 二.民主主義国家としての政治形態、教育を指導・実践するが、真の正義と民主主義教育を与えない。「アメリカン・ドリーム」の根幹の思想も理解させてはならない。

 三.語学、特に米・英語教育は適切なコントロール下で行い、日本国民全体の語学習得能力のレベルが一定水準を越えさせない。
 ペンタゴンの日本分析の結果は、前三項が正しく実践されれば、いつの日にか日本はアメリカを再び脅かす強国になり得るというものであった。

 完膚なきまでに焦土と化し、飢えと絶望を見に纏っただけの日本国民をまのあたりにして、この国がアメリカを脅かす国家として蘇る可能性を信じる者を探すのは難しいが、「マッカーサー」は分析の詳細な裏付けとなるデータからその疑いを消し去っていた。
昭和二十年九月、昭和天皇裕仁は「マッカーサー」への表敬訪問の形でGHQに自ら赴いた。

 翌日の新聞には、軍服姿でズボンの後ろポケットに手を入れたままリラックスした表情ですっくと立つ大男とその側に、少し緊張した表情で立つ天皇のツーショットが一面を飾った。

 多くの国民は、この時初めて自国の生殺与奪の権を握る「マッカーサー元帥」と、僅か数ヶ月前まで「現人神」と教えられ、その命令は絶対であった「天皇陛下」の実像を誰に憚ることなく、同時に確認する事となった。
 天皇と「マッカーサー」との会談内容は、当然の事ではあるが、GHQの情報管理責任者からの発表をそのまま伝えるものであり、「マッカーサー」執務室で交わされた会話の真実はその後今日に至るまで公開されていない。

 報道によれば、天皇は今大戦におけるアメリカ兵の犠牲者に追悼の意を表明し、民主的占領政策に対する謝意と日本国民に対する復興支援を要請したとある。その為には自らの命を捧げると発言した。

 これに対する「マッカーサー」の発言内容は「日本国天皇」に対する敬意を払った慎重且つ「連合国総司令官」に相応しいものであったが、敗戦の痛手に打ちのめされ明日の我が身に全神経を注がねばならぬ多くの日本人にとっては、それ以上でも以下でもない占領下の一つの出来事でしかなかった。

 天皇は、「マッカーサー」に、必要なら命を捧げる旨を伝えていた。
 天皇は自らの意思で「マッカーサー」訪問の最大のテーマを「責任の取り方」に置いていた。
 戦争の責任を明確にし、占領政策を円滑に進める事により、日本の復興と一日も早い占領下からの開放の為に命を捧げる事に吝かでないのが「天皇」の心であった。

 戦勝国が自分の命を求めないまでも、「退位」すべきと考えていた。
 天皇の意思で「退位」する事は不可能な事であった。
 敗戦までの「大日本帝国憲法」下の「皇室典範」によっても「退位」が存在せぬだけでなく、既に「大正天皇」の時代から「天皇」に与えられた権限は限られていた。

 歴代の国家指導者達は、彼等の計画を叶えたい時と計画失敗の責任が生じた時だけ「天皇」の命令という形を欲しがった。
 「天皇」の退位は「天皇」を取り囲む全ての人間に夫々の立場における「退位」を促す事と、その事から全ての者が「退位」に反対を唱える事を熟知していた「天皇」は誰にも自分の意思を伝える事をしなかった。

 もし、「退位」が日本国民にとって望ましい姿ならば、それを可能とする人間は「マッカーサー」であった。
 全能の権力者「マッカーサー」の主導によるアメリカの決定は「天皇」の退位に異を唱える者を許さないはずであった。
 「天皇」は連合国の多く、特にアメリカがこの戦争を通して、それ以前の何倍も「天皇制」を敵視しているで有ろう事も承知していた。
 その観点からも、また考慮しうる全ての状況を照らしても「退位」でもたらされる障害はその利点を上回るものでなく「マッカーサー」が申し出でを受け入れるものと思っていた。
 「マッカーサー」の答えは「NO」で始まる意外なものであった。

 歴史的にも「天皇」は日本人を纏める中心的役割を担っており、その存在と敬意は今後共継続されるべきものであり「退位」を支持するものでない事を明快に表明して「天皇」の心に驚きを与えた。

アメリカ合衆国は、今戦争における戦争裁判においても「天皇」を戦争責任者として裁く考えに組しないとも明言し、現に行われている占領軍指導による「新憲法」発布の草案においても、皇室の存続と、主権在民における国家の象徴としての「天皇制」が前提である事までを「天皇」に伝えた。

 「天皇」と「マッカーサー」が再びこの件で意見を交わす事はなかった。
 その後の「新憲法」発布で国民の象徴としての「天皇制」と皇室は明文化され国民の前に示された。
 国民一部からの反対の声も、多くの「新憲法」歓迎の声に消される中で「マッカーサー」の意思は今日至って生き続けている。
 「天皇制」存続に異を唱える事は、「天皇」への攻撃でなく、「マッカーサー」への反抗であり、反論の余地は僅かであった。

 「天皇」の退位を幻に追いやったことによりペンタゴン指令の第一項がクリアされた事を「マッカーサー」は確信した。

 結果を確かめる事無く、この世を去る事も承知していたが、自信と満足感で満たされていた。
 ペンタゴンは、日本の敗戦要因の重大要素に「日本人の責任感」の形を詳細に分析していた。

 日本民族は世界でも、最も典型的な農耕民族としての遺伝子を有する人種であると結論づけた。
 世界には「農耕民族」の部類に属される国家、民族は少なくないが、完全に四方を海に囲まれた環境で、近代において三百年余の間も鎖国をし、建国以来他国の侵略による占領を受ける事もなく国家形態を維持してきた単一民族国家は日本以外になく、農耕民族としての特徴的傾向は他国の比ではない。

 農耕は、自然の力の前には無力な人間が、集団の「和」と忍耐で達成しえる生活形態である。
 日本国でのその特徴は、集団における「和」を最も重んじる国民となって民族の遺伝子となった。

 集団の「和」を全てに優先させ、「和」を乱すものはその理由を問わず排斥する。
「和」を保つ手段として、正義の執行に不可欠な「徹底的検証」等を好まない。
 「徹底的検証」は「正義の執行」を促す結果となり、場合によっては集団の指導者も含めた相互の責任追及は、結果的に「和」を乱す「部落内の「気まずさ」となる。

 部落内の決定的意見対立は、農耕にとって避ける事の出来ない、自然の周期に支配された一定時期に完遂せねばならぬ育成と収穫の集団作業を不可能とし、それは「農耕」を生命の糧とする民族にとっては決定的障害となった。

 いかに集団労力が必要かは、「和」を乱す者を「部落の共同生活」から締め出す制度の「村八分」においてさえ「田植えと稲刈り」の集団作業時のみの参加を認める「二分」の余地を残していた事からも明白である。

  このような社会では、「決定的主張」を行った事による集団の非協力は、即ち「死」を意味する。従って必然的に「責任の所在」を最後まで追及する習慣と訓練は衰退した。
  責任追及の相互回避は、相互の利益にも繋がる結果となり、歴史的経過は日本民族から
 真の「責任感」を喪失させたと結論付けた。

  ここでの「真の責任感」とは、「狩猟民族」である事を自認し、その特徴を「自己責任」と「正義」と自己分析、位置付けたアメリカ人の価値観によるものである。
  ペンタゴンの研究結果は、日本民族がアメリカ国民と同様の「正義感」と「責任感」を持てば、アメリカと同等の国家に成り得ると報告していた。

 日本人の「責任感」の限界はその遺伝子により、「狩猟民族」の代表格である英米に比較して低いハードルであった。それは「玉虫色」と表現されるあいまいさでの収束を前提とした、「建前と本音」の社会を構築してきた。

  「マッカーサー」は昭和天皇の「退位」申し出でに内心驚愕した。母親が京都に住んでいた事のある「マッカーサー」は日本文化についても平均的将校とは比較にならない知識と実体験を持ち、それ故に「天皇」に関する理解は日本人的神秘性を持ち合せていた。
  「マッカーサー」が持つ「天皇」の認識の中には、自らの責任を認め国民の為に退位を決意する天皇は存在しなかったからである。
  「マッカーサー」は天皇の「退位」を尊敬と敬意を払った表現で却下した。これこそが自分に与えられた指令を全うする第一歩と考えていた。
  日本国内は、敗戦によって国民全体が将来の方向を失い混沌とした状態であった。軍国主義が一夜にして否定され、弾圧を受けていた社会主義・共産主義者は活発な政治活動を開始し、「天皇」を初めとする政治、軍部指導者の戦争責任を追及し、旧軍政の否定では一致しながらも天皇制を肯定し、社会・共産主義とイデオロギーを異にする、いわゆる保守勢力とが真っ向から対立し、大半の国民はその形勢をじっと見ていると状況であった。

 日本の敗戦の六カ月前に平和を手にしたヨーロッパでは、既にドイツナチスとその手足となったゲシュタポの戦争犯罪を厳しく追及し、最大の犠牲者を出したユダヤ系民族によるナチスの徹底的追跡が地球規模的規模で始まっていた。
  日本国内においても、千章連合国による「極東軍事法廷」で戦争犯罪者の裁判が行われる事となり、占領軍による戦争犯罪被疑者としての旧日本政府指導者の逮捕が、連日新聞の一面を占めていた。

  戦争の責任について「一億総懺悔」という言葉が生まれ、日本人は今まさに「責任の取り方」について個々が模索している時であると「マッカーサー」は考え、日本人自身が正解を見つけ出す事を恐れた。

  日本人が正しい「責任感」を持つことはアメリカを脅かす第一歩であるからであった。
  典型的縦割り社会を構成し、集団連帯責任体制による「徹底責任非追及型」の民族が「天皇退位」によって、その遺伝子に突然変異をもたらすであろう。
  国民が「天皇」を国家の最高指導者と考えていたか否かは兎も角、最高権力者としてその命令への絶対服従に疑いを持っていなかった「天皇」の退位は「責任者としての辞任」であり、縦割り社会としては「天皇」に続く権力者への無条件の「責任追及」となり、それは前例の踏襲を重んじる特徴によって今後の日本民族の習性となっていくであろう。

  「極東軍事法廷」は一部の戦勝国による批判をよそに粛々と進められ、東条英機を初めとするA、B、C級戦犯の絞首刑、懲役刑、公職追放という刑量の判決となった。
  日本国内では、A・B級戦犯の巣鴨刑務所における絞首刑の執行時にいくらかの批判勢力が声を高くしたが、大方の国民はこれを比較的無表情で受け止めた。どちらかといえば、自分達に絶対的権力を振るった軍人の頂点が、いともあっさり処刑される現実にやっと敗戦の意味と被占領国の置かれた立場を正確に理解した。

  終戦・占領の混乱も手伝ってか、「極東軍事法廷」における戦争犯罪被疑者の中には、全くの冤罪に近いものも含まれその事が日本国民の中に「戦勝国の理論」による一方的な無効裁判との念を強く植え付けた。
  後年、小説・映画等にもなった「私は貝になりたい」に象徴されるような、極く善良な、どちらかといえば反戦思想の一理髪店主が戦場での上官命令の実行を理由に処刑されたりしていた。

  然しながら、一部不当な判決により戦犯の汚名を着せられた者達の「正義」の為に命を掛ける国民的決起は怒らなかった。
  日本国民が「極東軍事法廷」に異議を唱え自らの手で、内なる真の戦争犯罪者の摘発を行うことはなかった。

  軍部指導者の命を忠実に実行し、反戦思想者を徹底的に弾圧した、憲兵・特高(特別高等警察)の責任を、自らの手で裁く動きも日本国民の中からは起こらなかった。
  仏教徒の国でもあるこの国では、死者は全ての罪から開放され「仏様」になるという思想は、全ての出来事は一代限りの事として忘れ去られる事となり、同じ過ちを繰り返す要因となり、アメリカにとっては好都合であった。

  その後、独立した日本国民はA級戦犯を含む戦没者の慰霊を「靖国神社」に祭り、その事が中国・韓国との友好関係に深刻な影響を及ぼすこととなるが、アメリカはこの件について占領時から一貫して沈黙を守っている。
  「マッカーサー」は安堵した。

  「天皇退位」を回避した事で、日本人が「真の責任の取り方」を会得する機会を奪う事が出来たからである。日本民族にとって実に二千年に一度であったであろうチャンスを未然に摘み取った人間として、歴史は将来自分にいかなる評価を与えるか、それを思うだけで「マッカーサー」は軽い興奮を覚えた。

 次に「マッカーサー」が取り組んだテーマは「真の正義感」を日本民族から取り上げることであった。
 アメリカ軍情報部隊のルーザン大佐は、本国よりの指令に従った「学校教育制度」の改革の推進を「マッカーサー」から命じられていた。

 ルーザン大佐が既に着手した6・3・3・4制の学校教育計画の中で特に重点をおいた点は二点あった。
 第一は、絶対的「正義感」の芽生えを摘み取る事であった。
 絶対的とは、即ち「命を賭しても」という事である。日本民族が正義の為に命を掛ける民族に成長する事は断じて避けねばならなかった。その観点からルーザン大佐は、学校教育におけるカリキュラムから「正義感教育」を除外した。
 さらに、日本の伝統的文化である歌舞伎や、最大の娯楽である映画産業にも厳しい条件を与えた。正義の為に命を掛ける内容の、特に仇討ちに関する公演、上映は全て禁止した。

 真の「責任感」を持ち、正義の為に命を掛ける民族の誕生は、いつかアメリカ合衆国を凌ぐ賢明な国家となって、歯向かって来ると「ペンタゴン」は断言していた。 
アメリカ政府はこの時既に、世界を二分し兼ねない勢力となりつつある共産国との競争に打ち勝つ為の世界戦略上は、必ずしも「真の正義」のを貫けないで有ろう事を看破していた。

 ダブル・スタンダードを使い分ける外交手段に、「真の正義、責任感」を持った日本が異議を唱え、太平洋戦争の悪夢が再現しないという保証はない。

 アメリカ政府の危惧は、新憲法の草案に第九条「戦力と戦争の放棄」で二重、三重の安全策を取らせた。
 軍隊を持たず、戦争の権利を放棄させる事で、将来アメリカ合衆国との間でいかなる意見の衝突があろうと憲法という制約下での行動に限定される布石を打った。

 日本はまさに、乱暴の限りをつくしたやくざ者が捕えられ、刑に服して出所した後は、例え路上で如何なる危害を受けている婦女子がいようと、例え救いを求める者の為であっても二度と暴力を振るわないと誓ったような形となったが、以後六十年にわたり日本人はこの条文を守り続ける事となった。
 さらに「ペンタゴン」は更に入念な手を打った。

 アメリカの友好国として育成する日本国内にアメリカ文化が充満していく事は時間の問題である。当然「アメリカン・ドリーム」の思想も直輸入される。
 真の「アメリカン・ドリーム」とは敗者復活の「逆転満塁ホームラン」の思想である。
 二つの「正義」が対立して一方の「正義」が勝利した場合、もう一方の「正義」が隅に追いやられる事があっても、勝利した「正義」が誤りと認められた瞬間、不遇を囲っていた一方の「正義」がその主導権を握れるという思想である。
 この思想が、アメリカ人に「諦めない」主張の連続遺伝子を植え付けて来たのである。

 「アメリカン・ドリーム」で象徴される一夜にして億万長者になるシンデレラストーリーは単なる結果であり、根幹の思想ではない。
 「マッカーサー」は「アメリカン・ドリーム」の結果の喧伝には一切の制約をしなかったが、根幹思想の啓蒙は厳しく禁じた。
 その一環として、「マッカーサー」が取った手段は、政治における「敗者復活」の阻止であった。
 軍国主義指導者の一掃とリンクして、彼らと対極に位置していた者達で指導体制のトップを形成することに特別な配慮も支援も与えなかった。

 全能の神にも例えられた「マッカーサー」の権力にとっては容易い事ではあったが、これを日本国民に与える事は正に「アメリカン・ドリーム」の真髄を知らしめる事だったからである。
 日本社会はその後六十年間に渡り復興と発展を手に入れたが、不祥事を起こした当事者が後継者を選任していくシステムが定着し、不祥事を糾弾した為に不遇を囲ったものをリーダーとして迎えた例はない。

 ルーザン大佐の第二の成果は、学校教育による「語学教育」の制限的指導であった。
 アメリカは、日米開戦と共に直ちに、軍隊での組織的日本語教育に取り組んでいた。
 その結果は、四年間の戦いを通じて戦略の正しさを立証したが、成功の裏には日系二世の貢献があった。

 一方、日本では開戦と共に、鬼畜英米の合言葉の下で「米英語」の使用が禁じられ、外来のスポーツ用語まで言葉狩りされ、国民の英語読解力は極端に低下していった。
 戦争における暗号解読、陸上における迫撃戦等での敵国言語理解度の差は、戦争の優劣に明らかに影響を与えた。
 また、日本人の英語能力がもう少し高かったら、硫黄島、沖縄での民間人の自決等を防ぐ事も出来たと、分析報告書にはあった。
 更に「ペンタゴン」はペール浦賀入港以来、如何にアメリカ合衆国が、日本人の語学の不足に起因して外交上の利益を得ていたかを個々の事例を細部に渡り調査、立証していた。
「ペンタゴン」内部には、徹底的米語教育を行い、アメリカと同化させる事が最善の道であると、制限的言語教育に反対する意見も大きかった。

 徹底教育論派は、日本軍が朝鮮、台湾をはじめアジア各国で行った日本語教育による成果を重視した。他民族を短時間で従順に従わせるには有効な手段であると主張した。
 また、日本軍の例に倣えば、終戦と共に予想される膨大な兵士の、英語教師としての雇用対策も兼ねる案として上申された。
 アメリカ政府の選択は、百年の計を踏まえ「制限的語学指導」であった。
 戦後の日本の英語教育は、幼児期からの実施は却下となり、中学校からの文法中心の内容に決定され、以後六十年間変るっていない。

 「マッカーサー」が自ら手を下し、細部に渡って命令の遂行に全力を傾けていたのは最後の難問、日本国を「真の民主主義」を知る事無く「民主主義」国家たらしめるというプログラムであった。
 教育の恐ろしさは、ペンタゴンの分析で充分すぎるほど「マッカーサー」初めGHQ主要メンバーの共通の理解であった。
 日本の、終戦までの教育を根底から修正し、「真の民主主義」を徹底的に植え付ける事には特別な支障はない。
 僅か三百年の歴史しかないアメリカ合衆国ではあるが、その間に「南北戦争」という内戦も含めれば、自由と正義の旗印の基に二度の戦争を経験し、血を流して獲得した民主主義であるという自負は、地球上におけるアメリカの存在価値そのものとの考えであった。
 
 即ち、アメリカにとっての「真の民主主義」とは血を流し命を賭けても守る価値観であり、裏返せば、「真の民主主義」のない事は死んだ事と同意語なのである。
 「マッカーサー」の指令による新生日本の教育現場から「真の民主主義」を「命を掛けても守る」という指導方針は除外された。
 GHQが占領国日本の教壇に求めた物は、国民主権であり、国民の公平な政治への参加であり、それ以上でも以下でもなかった。
 「真の民主主義」が理想ではあっても、現実の国際社会の闘争においては、理想でしか有り得ない事を一番理解していたのはアメリカであった。
 占領国「日本」に民主主義を根付かせるシステムを次々と構築しながら、一方では報道検閲、労働組合運動の規制等日本の共産主義化阻止に必要とされた事は躊躇なく断行した。

 日本の歴史上初の国民的ゼネストとなるはずであった「六・十二スト」がその発効一時間前に「マッカーサー」命令によって中止させられた事は、その象徴的出来事として記憶されている。

 元々勤勉で優秀な日本民族が「「真の民主主義」の為には命を掛ける、「真の正義感と責任感」を持って占領状況から脱した時、いつか必ずアメリカ合衆国による世界制覇の目論みの前に立ち塞がる事は疑いがない。
 まさに、「マッカーサー」統治の日本は、インストールされていた全てのソフトが働かなくなり、真っ白にフォーマットされたパソコンのようなものであった。

 「マッカーサー」は、アメリカ政府の意思を受け、自由・民主主義国家として必要なソフトを日本というパソコンに次々とインストールしていったが、日本国民はインストールされなかった三つのソフトの存在を知る事はなかった。

 「日本・パソコン」は、それから六十年、僅かなソフトの欠落のまま動き続けている。
 昭和二十五年六月、アメリカの予測した共産主義との世界的衝突の形が朝鮮半島で勃発、以後三年間の「朝鮮戦争」となった。
「朝鮮戦争」における原爆の使用を巡ってルーズベルト大統領と対立した「マッカーサー」は、最高総司令官を解任され、後任のリッジューエ中将の着任の日、小雨降る羽田を後に、母国に向かった。
 「マッカーサー」は、帰国後自らが心血を注いだ数々の布石が着実に成果を上げている事を報告され充分満足すると同時に、最後の仕上げを行った。

 「当時、A,B,C,D包囲陣で経済制裁された日本が自衛の為に戦争を起こした事も止むを得なかったかも知れない」この晩年の「マッカーサー」としては、最後の政治的影響力を持つ発言とも云える一言は、その後の日本の「正しい歴史認識教育」を誤まらせる最後の仕上げとなった。

 「マッカーサー」は、ホワイトハウスの上下両議院総会において、「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」の名文句を残し、元帥のまま長きに渡る軍人生活にピリオドを打った。
 アーリントン墓地で永遠の眠りについた「マッカーサー」は、今の日本国に満足し、コーンパイプの紫煙を目で追いながら任務達成の満足感に浸っていることだろう。

 かつて「マッカーサー」は米議会で次のように証言している。
 「アメリカが大人なら、今の日本は十二歳の少年である」
 当時十二歳の少年は、今何歳になったのだろう?

 ちなみに、「マッカーサー」が与えられたそのプロジェクトの作戦名は、「正義」のJustice、「権利と義務」のAuthority and Responsibility、そして「平和と自由」のPeace and free,の頭文字から「JAP(ジャップ)」作戦と呼ばれていた。

                                   完

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