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zoom RSS 【おっちゃんの言い分】 2016年/11月編

<<   作成日時 : 2016/11/01 08:32   >>

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「モダンジャズに名曲なし名演奏あるのみ

 “おっちゃん”が 昭和36年(1961年)航空機メーカーに就職した時に、鈴木さんという先輩がいた。

 朝鮮戦争という予期せぬ戦争特需の恩恵もあって予想を上回るスピードで復興に向かった日本は、敗戦の痛手からも高度成長時代の入口に来ていた時代で、生活にも娯楽にも欧米、特にアメリカの文化がワーッと開花した時代でもあった

 日本の企業も皆活気づいていて、“おっちゃん”の会社もまた然りで、昭和29年から定期採用制度を開始していて、“おっちゃん”はその第7期生、鈴木さんは第2期生だったから5歳先輩という関係だった。

 鈴木さんとは、課は違っていたが隣り合った部署だったのと、まるで体育会系のような定期採用者の会(全体もあったし、〇期会という分会?もあった)などで常に顔見知りだった。

 鈴木さんは福島のたいら出身で大人数の兄弟の末っ子で、下に兄弟がいなかった事もあってか、なぜか最初から“おっちゃん”を可愛がってくれ、公私共に優しくしてくれる兄貴分のような存在だった。

 鈴木さんは、高校時代ボクシング部にいたそうで、格闘技の好きな“おっちゃん”には、興味津々のターゲットでもあったりして、共に酒が嫌いでなくよく飲み歩いたが、いつも鈴木さんにご馳走になっていたような気がする。

 鈴木さんは先端技術物が好きで、当時やっと庶民が手を出し始めた家庭用のステレオセットをいち早く買って、当時爆発的に人気の出てきたモダンジャズのレコードを買い込んできて、「どうだ、いいだろう?」と聞かせてくれた。

 車も好きで、当時やっと庶民にも手が届きそうになってきた国産大衆車トヨタのパブリカ、日産のサニーに悩んだ末、パブリカを買って(鈴木さん曰く、君がパブリカにしろと言ったからだと・・・)よく乗せてくれた。

 その後、鈴木さんも“おっちゃん”も前後して退社し、鈴木さんは故郷のたいら市で大好きな自動車整備の仕事を続け、リタイア後も渓流釣りを楽しんでいて、“おっちゃん”も自営業と別々な道を歩いたが、今でも親密にしているので、もうすぐ60年近い交流となる。

 その鈴木さんから電話が有り、「“モーニン”って曲憶えてる? CDが欲しいんだけれど」というリクエストだった。

 鈴木さんの言う“モーニン”とは、アート・ブレーキーとジャズ・メッセンジャーという一世を風靡したモダンジャズ・コンボがブルーノートで発表し全世界を席巻したモダンジャズ不朽の曲のことで、鈴木さんのステレオでジャズが聞きたくて“おっちゃん”がレコード店で何買い求めてきた最初のLPレコードで、2人で飽きることなく繰り返し聞いていた曲だった。

  
画像

 

 話を聞くと、鈴木さんはどうやらまた車を乗り換えたらしく、15万円程掛けてその車のオーディ・システムを構築しているそうで、その完成時には“モーニン”を・・・という事だそうで、早速CDを作って送ってあげた。 


   ― − − − − − − ― − − − 
 
   【おっちゃんの言い分


 鈴木さんから“モーニン”という曲名を聞いて、“おっちゃん”の長い人生のほんの一瞬ではあるが、1960年代のモダンジャズブームとの懐かし係わりを思い出した。

 “おっちゃん”の会社は、昭和36年ではまだ日本では余りなかった週休2制を既に当たり前のように採用していたので、土日は原則休みであった。

 とは言うものの、高度成長時代の幕開けを迎えて日本中が「行け行け!」だったので、仕事量は豊富で、稼ぎたい人は残業、残業で頑張っていて基本給より残業代の方が多いと言う強者がゴロゴロいる時代だったが、“おっちゃん”はどちらかと云えば平日にみっちり仕事を熟して、土日は人生を謳歌する方を選びたかったので、基本残業をせねばならない様な状況を作らないよう心掛けて、平日残業はしても土日はきっちり休むスタイルを死守していた。

 とは、言うものの当時はまだ池田隼人(元首相)の“所得倍増政策”以前の状況で、給料は今から考えれば信じられないような低さだった(勿論、物価も相当安かったけれど)。
 
 昭和38年位でも、多分月給(基本給)は1万5千円位じゃなかっただろうか。従って、土日を優雅にエンジョイしようにも「暇は有れども金はなし」という状態で、映画を見たりパチンコをしたり居酒屋で一杯程度は普通に出来ても、土日ごとに一泊旅行というような訳には行かなかった。

 “おっちゃん”の会社は本社が横浜市で、航空機整備部門は大和市(神奈川県)にあって、入社して1年位は鈴木先輩と同じ大和市勤務だったが、その後5年間程横浜市の方に出向していた。

 土日の休みには、よく大和市の鈴木先輩を訪ね、土曜の夜は先輩と銭湯に行き、帰りには我社社員御用達のトリスバー」という店でハイボールを重ねて、先輩の下宿でモダンジャズをステレオで聞きながら、いつの間にか二人とも爆睡・・・というコースを楽しんでいた。

 先輩の下宿には大家さんは住んでおらず、3,4部屋は全て同じ会社の先輩より若い社員が住んでいたので、夜遅くステレオをガンガンかけても誰も文句が言えなかったようだ。(随分と迷惑な事だったろうが)

 いくら鈴木先輩が優しいからと言って、毎週毎週迷惑を掛けてはいけないと思い、“小人は閑居して不善をなす”という言葉もあるように、ゆとりある時間で何かしないと碌な事にはならないぞ、という漠然とした危機感を持っていた

 そんな時に、ひょんな事から本格的にモダンジャズと接する出来事があった。

 横浜の工場では、毎年の忘年会などの職場の飲み会は大抵中華街の安目の店が定番だった。

 ある年の忘年会(だったと思うが・・・)で、お決まりの中華街での飲み会の流れで、2次会に繰り出して、伊勢佐木町の通りから一本日ノ出町寄りの福富町の通りにあった、馬鹿デカいキャバレー“Y劇場”に行った。   今はもう無くなっているが・・・。

 そこは、今で言えば馬鹿デカい居酒屋という感じだが、一晩に4回ほどバンド演奏があって、1時間程のバンド演奏の間の時間は、ストリップショーまがいの(今で言えば、六本木の外人パブの“ショータイムサービス”のようなものかな?)踊りが場を繋ぐという嗜好の店で、客の目的は客同士の酒と肴と、“ショータイムサービス”であって、バンド演奏は煙草の煙と喧騒のBGMに過ぎない様な感じだった。

 バンド演奏が始まった時、“おっちゃん”は雷に打たれたようなショックを受けた。

 曲目は“モーニン”で、その演奏は、鈴木先輩と繰り返し聞いていたLP盤の演奏そのものの完璧はコピーだった。

 ドラムソロもアート・ブレーキーを生で見ているような素晴らしいプレーだった。

 酔いもいっぺんに覚めるような衝撃の演奏を聴いて、何とか自分でもあのようなドラムプレーが出来なるようになれないかと“おっちゃん”は思ったが、その夜は後ろ髪を引かれる思いで彼らのラストステージまで粘ってから帰宅した。

 “モーニン”以外の、“おっちゃん”が曲名も知らないナンバーも、「これが、モダンジャズか!」と唸るような素晴らしさだった。

 その日から、どうしたらモダンジャズのドラマーになれるのだろうと四六時中考えて、早速伊勢佐木町のでかいレコード店で「ドラム入門」の本とドラム・ステックを買い求めたりしたが、肝心のドラムセットと防音スタジオが有る訳でもなく、通信教育で空手を習うような欲求不満だけが募った。

 暫く悩んだ末、あの店のドラマーに教えてもらうのが最良の策だという結論に至った。

 そうなったら「善は急げ」?と言う訳で、早速休日の夜、1人であの店に飲みに行った。

 目的は、何とかバンドの責任者の人にドラムを教えてもらえないかと談判する事だった。

 開店早々からバンド演奏を注意深く2ステージほど聴いていて、どうやらバンドのリーダーらしき人は、サックス奏者らしいという事が分かり、演奏が終わって“ショータイムサービス”が始まると、バンドマン達はステージの端からゾロゾロと降りてきて、店の入口から外に出て行く事も分かった。

 バンドのメンバーは、サックス(テナーサックス、アルトサックスとクラリネットを吹いていた)、トランペット、ピアノ、ベース、ドラムの5人で、これをコンボ(Combination of Bandの略)と称し、モダンジャズの基本構成だという事や、バンドのリーダーをバンマス(Band Master)という事も、その後知った。

 3回目の演奏が終わって、バンドのメンバーがバラバラと店を出るのを待って、“おっちゃん”も後を追って店をでて、サックス奏者の人に声を掛けた。

 これも、後で知った事だが、メンバーはステージの合間を、店から徒歩で5,6分の処にあるモダンジャズ喫茶「ダウンビート」というマニアには超有名なジャズ喫茶でコーヒーを飲みながら、高性能スピーカからのモダンジャズを聴きながら時間を過ごしていたのだ。

 勿論プロとしての演奏情報吸収の為なのだが。ダウンビートの斜め向かい側には、今は無いが当時有名だった美空ひばり経営のクラブがあった。(勿論、ご当人は居なかったろうが・・・)

 乱暴にも“おっちゃん”は、ダウンビートに向かって歩いていたバンマスのサックス奏者のNさんに「ドラムを習いたいのですが、教えてもらえませんか。但し土日しか時間は有りませんが・・・」と単刀直入に切り出した。

 すると、Nさんは拍子抜けするぐらいあっさりと、後ろから歩いていたメガネを掛けた細身のドラマーの人に「おい、鈴木。この坊やがドラム習いたいってよ」と声をかけ、その鈴木さんと言うドラマーがまたあっさりと「俺は、いいけど」と答えた。

 “坊や”と呼ばれたのは、“おっちゃん”が若かったからだとその時は思っていたが、バンドのメンバーの端くれに入れてもらえた頃には、プロのバンドの世界では、バンドマンの見習いを“坊や”と呼び、「あの子は〇〇のバンドの坊やをやっているんだ」というように使う。

 お笑いの大御所“志村けん”も、ドリフターズではかなり長い間“坊や”をやっていたのだ。

 “おっちゃん”はそのまま、メンバーと共にダウンビートに連れて行かれて、コーヒーを出してもらって、Nさんから勤務先や年齢や名前や色々と面接され、最終的に土日、開店前の店のステージでドラムを練習する事を許可してくれ、店のオーナーにもNさんから話を付けておいてくれる事となって、次の週からでも練習に来るようにと言ってもらえて、嘘のようなDream come true ! に反って実感が湧かなかった。

 ステージの一段上で1人スポットライトを浴びて、アート・ブレーキーなみのドラムソロを聴かせる、“おっちゃん”の先生となるドラマーが“鈴木さん”というのも、運命を感じてしまった。

 それから、約1年毎週土日は、午後1時ごろから4時頃まで勝手に電気を落とした薄暗いステージで、勝手にドラムの練習に明け暮れた。

店の中には前夜の客席の清掃や消耗品の補充をするおじさんだったりおばさんだったりがたまに居るだけで、シーンとしていた。
 
 それはそうだろう、年中無休で夜中の12時、1時まで商売をしている訳だから、店の関係者はほとんど寝ている時間だ。

 お店は一階が大ホールで、2階、3階には従業員、踊り子さん、バンドメンバーが住込みでいて、バンドのメンバーの中にはNさんや“おっちゃん”の師匠のように奥さんと一緒の人達もいた。

 いずれにしろ、夜更けまで働いて寝ている時間に下手なドラムの音を遠慮なく出していたのだが、誰一人その事で怒ったり苦情を言って来た人は居なかった

 それどころか、段々顔見知りになった従業員や踊り子さん達は、「頑張って!」というような雰囲気でさえ接してくれた事は、今でも感謝の気持ちで一杯だ

 平日でも、師匠のテクニックを少しでも覚える為に、会社が終わってから店に行って、ステージの端や、空いている時は最前列の客席から演奏を見続ける特典も与えられた。

 勿論飲み食いなしで、営業中でもフリーパスでの出入り自由という夢のような待遇だった。

 土日1年間も通うと、90日(述べ3か月)近くだからバンドの皆さんとも色々な話をするので、JAZZの世界、プロミュージシャンの日常なども少しずつ教えられたり、自分で学んだりできた。

 バンマスのNさんからは、JAZZの根本を教えてもらった。

 Nさん達はJAZZと云わず、Bluesと言っていたが、JAZZの発祥は奴隷制度のあった時代のアメリカ、特に南部の黒人達が、一日の労働を終わって自由な夜の時間に、虐げられた環境の鬱憤や嘆きを音楽に託して表現してきたものから発達してきたと知って、Bluesという表現がピッタリと納得できた。

 心の叫びを表現する手段であるBluesだから、同じ曲でもその日の演奏者の気持ちによって、明るい調子だったり、暗いトーンになったりしてしまい、それを良しとするのがBluesの基本だと知って、なぜNさん達の演奏にも日によって曲想に微妙な変化があるのかが理解できた。

 確かに、メンバーの譜面台には譜面が乗っていたが、普通の歌謡曲やクラシック音楽のように最初から最後まできっちりと音符で書かれているものとは違っていて、オープニング・テーマとエンディング以外の中間部分は、S2コーラス、Pt2コーラス、P3コーラス、B2コーラス、D2コーラスといった感じの小節割りだけの簡単なものだった。

 Sはサックス、Ptはトランペット、BはベースでDがドラムスで、夫々の受け持ちパートは全てプレーヤーのソロ・アドリブだ。

 夫々のソロ・パートの間、ドラマーはメトロノームの様に正確なリズムを刻んで、1コーラス毎にシンコペーションを加えた叩き方やシンバルの叩き方で、演奏者にサインを送る作業者である。

 アドリブだから、演奏者のその日の気分でメロディーも曲想も千差万別となる。当然譜面などにしておく意味がないし、全員が毎日同じ譜面に従うのはオープニング・テーマとエンディングだけとなる。

 JAZZの1コーラスとは32小節を意味していて、2コーラスと言えば64小節分の演奏をするという意味で、JAZZの基本は4/4拍子だから、4分音符128個分だから1コーラス大体2〜3分、5人のコンボで全員が2コーラスのアドリブを入れれば、オープニング・テーマとエンディングの部分を加えれば、一曲で20分位になるのも不思議ではない。

 モダンジャズ演奏では、各プレーヤーのアドリブが醍醐味だから、皆気合を入れて演奏する訳だが、その日の気分でその場で作曲をして演奏する訳で、それだけでも凄いのにソロ・アドリブだからどんなメロディーが奏でられるか分からないにも係わらず、その場で生まれてくるアドリブの曲に、ピアノやベースがシンクロしてコードを付けていく事だ。

 もともと、メロディー楽器には弱くて(♯や♭が2個位までの譜面の、音階位は読めたけれど、ピアノも弦楽器も管楽器にも全く縁のない人間だから、ドラムという打楽器を選んだ)コードもコード進行の理論も技術のない“おっちゃん”にとっては、メンバー全員が神様に見えていた

 コードとは和音の事だが、メロディーにコードが合ってなければ良い音楽とは言えないが、モダンジャズの世界では、セロニアス・モンクのように不協和音だけで名曲を世に出すジャズピアニストもいるから、奥が深くて増々神様だらけに思えてきた。
 
 モダンジャズはアドリブが命だから、オープニングとエンディングだけは全く同じでも、演奏メンバーの顔触れ、演奏の時期や場所で中身が全く違ってくる事が、「モダンジャズに名曲なし。名演奏あるのみ」と云われる所以だ。

 世界的に有名な例を挙げれば、アート・ブレーキーとジャズメッセンジャーのピアニスト・ボビー・ティモンズの作曲で、ブルーノートのアルバム『モーニン』("Moanin'"という曲名は、黒人教会で現世の辛さを嘆くことを意味していた)が火付け役となり、62年の正月にジャズ・メッセンジャーズが来日するや日本中が「ファンキーブーム」になったといわれる名曲(そば屋の出前持ちまでも、モーニンを口ずさんだとさえ言われた)は、ジャズ・メッセンジャーズが渡仏した際、パリの「クラブ・サンジェルマン」で行った演奏のライブ録音盤から正式なタイトルが "Moanin' with Hazel" となった。

 "Moanin'"という曲は、アート・ブレーキーとジャズメッセンジャーがパリの「クラブ・サンジェルマン」で行った演奏のライブ録音が最高!というように、「〇〇の××は、△△のメンバーで□□での演奏が最高!」というように、同好者の間で囁かれる。

 “おっちゃん”のドラマー修行の話に戻ると、丸々1年間ほど土日は薄暗いステージのてっぺんのドラムセットで1人、メトロノームを足元に、正確なリズムを打つ事やステージの脇から吸収する師匠のドラムテクニックを、記憶を元に反復練習していたが、師匠の鈴木さんが実際に教えてくれることはほとんどなかった。

 そのは、そんなに時間が経たないうちに解けた。

 大体、なぜバンマスのNさんが余りにもあっさりと“おっちゃん”のドラム修業を許可してくれたのかも謎だったし、JAZZが流行しはじめて実際にもいくつかの日本のビッグバンドも人気になっていたが、Nさん率いるメンバー程の力量のあるモダンジャズ・コンボは一つもないように思えたのに、なぜ横浜の安キャバレーで活動しているのかもだった。Nさん達だったらもっと世間に売れる舞台がいくらでもありそうに思えた。

 最初のは、ドラマーの鈴木さんの酒好きにキーがあった。彼は一度ステージに上がればアート・ブレーキーのプレーを完全コピーするプレーヤーだったが、兎に角お酒に目が無かったようで、結構な頻度でステージに穴を明けたりして、バンマスの頭痛の種だったようだ。

 軽いアルコール中毒だったかもしれない。最後のステージまで持たない事もしばしばだったようだ。

 あの素晴らしいドラムロール(32分音符の連打のような、ザーぁという打ち方)も、手の震えのせいとメンバーに茶化されるほどだったから。

 Nさんをリーダーとするメンバーが今のお店を拠点にしているのは、店のオーナーとの間で、モダンジャズだけを演奏していて良いという条件を飲んでもらえた事にあったそうだ。

 冷静に当時の音楽業界を今振り返れば、今でもそうかも知れないがモダンジャズのコンボだけで喰って行ける程は、残念ながらモダンジャズファン層はリッチな層でもなく、普通ならお酒と女性のお色気を求める客にとってもお店にとっても、ファンキーなモダンジャズばっかり演奏する事は余り歓迎できない話だし、モダンジャズファンにとっては演奏を聞くために酒と肴代と席料、ショータイムサービスのチャージまで含んだ費用は、頻繁に演奏をエンジョイするにはヘビーな話となる。

 どういう経緯かは知らないが、オーナーの太っ腹のおかげで遠慮なくモダンジャズだけを演奏できる環境が、Nさん達メンバーにとっては何にも代えがたい価値だったようだ。

 そんな天国のような大事な活躍の場で、ステージに穴を明けるのは演奏の場を失う危険もあるので、Nさんとして鈴木さんの穴を埋められるスペアのドラマーが必要だったのだろう。

 そこに、飛んで火に入る夏の虫ならぬ“おっちゃん”が喰い付いて来たわけだから、パクッと一口で捕獲された訳だ。

 独学に近い練習が(今なら、いくらでもYoutubeでドラムテクニックも学べる。師匠のテクニックも動画に収めて何度でもチェックできるのにと悔しいが、当時インテーネットがあったら“おっちゃん”の人生も変わってしまっていたかも)2年目に入った頃、突然Nさんが「明日、叩いてみるか?」と言ってくれた。

 自信は無かったが、お客の前で叩かない事には、永久にドラマーにはなれない訳で、バンマスの要請を断る“坊や”なんていないだろうと、「はい」と答えた。

 それから、土日のみを原則に(“おっちゃん”が叩くようになって、師匠のステージすっぽかしが増えたのもあって、平日でも会社が終わってから2ステージ目あたりから代打・・・なんて事もあった)メンバーの一員としてステージに上がるようになった。
 
 初日のステージでは、何をどう叩いたのかさえ覚えていない程、ラスト・ステージまで頭が真っ白のままだった。

 初めてステージで叩いた翌日には、Nさんが“おっちゃん”を伊勢佐木町の紳士服店に連れて行って、メンバーのニュフォームである濃紺地に細く白い縦縞の入ったタキシード風のスーツを仕立ててくれ、「まだ、見習いだし土日だけだから、アルバイト代ゲー千でいいな?」となり「はい」と受けた。

 バンドマンが、ドレミの音階のドイツ語C(ツエー)、D、E、F、G(ゲー)、A(アー)、B(ベー)で、1千円ならツエー千、5千円ならゲー千などというのが流行っていて、バンマスは5千円と言ったのだが、基本給が1万円そこそこの時代の5千円は、流石にプロの世界は違うなと思った。

 師匠に比べれば、いや比べる事さへ失礼なくらい下手(酔客には見破れない程度のドラマー)だったが、メンバーは“おっちゃん”をメンバーの一人として扱ってくれ、ステージの合間には、ダウンビートでコーヒーを飲みながら、他愛無い話で弄られたりしながらのお仕事だった。

 ダウンビートでの思い出としては、メンバーとのブレークタイム中に世界的サックス奏者ソニー・ロリンズが客として、我々の隣のボックスに座った事だ。

 当時は、労働組合の組織で「労音」というのが、音楽コンサートやミュージカル、落語など内外文化イベントを、安価なチケット(多分、500〜800円位)でバンバン開催していたので、“おっちゃん”もかなり多くの有名ミュージシャンのコンサートを観に行ったものだ。

 アート・ブレーキ―、カウントベーシー楽団、グレンミラー・オーケストラ、セロニアス・モンク、ライオネル・ハンプトン、オスカー・ピータソン、キャノンボール・アダレイ、デューク・エリントン楽団、ベニー・グッドマン、ペレス・プラード楽団、原信夫と♯&♭、有馬徹とノーチェックバーナ、東京キュウバンボーイズ、ジョージ川口、白木秀雄、猪俣猛、etc. etc. 。

 その日のソニー・ロリンズも、桜木町の紅葉坂にある県立音楽堂でコンサートをやっていたのだ。

 昼・夜2回公演の合間に若い黒人女性と二人でダウンビートを訪れたのだ。

 Nさん始めメンバーは、一目でソニー・ロリンズと分かり、流石に大興奮。

 一人が近所に色紙を買いにいっている間に、Nさんが「自分達も、モダンジャスをやっている。あなたは私達の憧れ。サインを貰いたいと言ってくれ」と“おっちゃん”に命じていた。

 “おっちゃん”は主に米海軍機の整備、改造、修理の仕事で、英語が仕事上必須だったので、その程度のリクエストには答えられた。

 世界の巨匠は、気さくに「そうか、モダンジャズ・プレーヤーか。頑張って」と6枚の色紙にサインをしてくれた。普段ニヒルなジャズプレーヤー達が、色紙を子供のように大事に抱えている様子が可笑しかった

 そんな代打ドラマー生活が1年ほど続いた頃、Nさんから「会社を辞めて、本格的にドラマーにならないか?」と打診を受けた。

 “おっちゃん”自身も相当悩んだ時期があったが、もうその時はある程度結論を出していて、いつNさんに気持ちを伝えようかと思っていたタイミングだったので、「自分としてはドラマーとして一流になる自信はないが、飛行機屋としてなら一流になる自信がある。ドラマーの道を諦めて飛行機屋一本で行きたいと思う」と言う事を伝えた。

 何をやるにしても、その道で一流になりたいと思っていたが、ジャズの世界で一流のドラマーにはなれないと悟っていた

 なぜなら、日本人最高のドラマーとしてレジェンドのジョージ川口のツーベースドラム(足で蹴る正面の大太鼓が2個)のハイテク演奏や、新進天才ドラマーと云われていた白木秀雄等を観ると、全ての音楽的下地が違い過ぎて、追いつくには遅すぎると悟った。

 更に決定的なのは、正確なメトロノームとしてのドラマーの仕事として小節の区切りのサインを、頭の中で小節を数えている訳だが、どうやらアート・ブレーキーは(黒人プレーヤは特に)頭で数えなくても体で小節数が分かっている・・・Nさんから聞いて、正直勝てない!と思った。

 齢などに関係なく、全ての時間を音楽に注いで勉強と稽古に励めば、日本人でもジョージ川口白木秀雄のように、体で叩けるドラマーになれない訳ではないかも知れないが、飛行機屋として「航空工場整備士」の資格を、入社後最短・最年少で取得する目標を実行中だったので、ドラムに全力を割く事も不可能だった。

 いい加減なアルバイト感覚で代理ドラマーを続けていては、師匠の為にもならないし、ひいてはバンマスやメンバーに迷惑を掛ける結果になると思ったので、恩返しができない事を詫びた。

 Nさんにも、“おっちゃん”の可能性の有無が分かっていたのか、さっぱりと代打ドラマーの終了を了解してくれて、“おっちゃん”のセミプロ・ドラマー生活は終わった

 2年近くの代打ステージで思い出のナンバーとしては、アート・ブレーキーMoanin' with Hazel、"Blues March"、キャノンボール・アダレイの"Work Song"、などで、”おっちゃん”の引退間際にはデイヴ・ブルーベックの"Take Five"が大ヒットして、5/4拍子というリズムのジャズで「5/4拍子って、どう叩けばいいんだろう」と思っていたが、発表と同時のメンバーの"Take Five"は、師匠のドラムと共にレコード通りの演奏だった。

 やはり、師匠にも絶対勝てない。引退して良かった!としみじみ思った。

 そして、"Take Five"の演奏は、S劇場のNさんコンボのが一番だ!



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